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元善光寺
■元善光寺と本尊
元善光寺は、601年(推古天皇の9年)この地に住んだ本田善光が難波(大阪)の堀江で見つけた仏像を持ち帰り、その仏を安置するお堂を建てたのが始まりとされている。
その仏像が善光寺如来で、元善光寺の説明によれば、642年(皇極天皇の元年)に本尊、善光寺如来が現在の長野善光寺へ移されると、新たな本尊として本田善光の手で木彫による一光三尊阿弥陀如来をつくったとされている。
この新たな本尊は秘仏とされ拝観はできないが、長い歴史の中で幾多の火災にもあったが焼失せず現存すると説明されている。この本尊に代わって、長野善光寺と同一年に御開帳される前立本尊も本尊同様の木造仏で、1700年頃につくられたとされている。
現在の本殿建物は1797年(寛政9年)の建築。駐車場から長い石段を登ると正面に本殿がある。
参拝や寺境内は自由に散策できるが、宝物殿への入場料は200円。善光寺縁起に沿って描かれた「善光寺如来三国伝来御絵伝」は区切られた場面が次々に展開し、三幅の掛軸として展示されている。
■麻績(おみ)の里への散策
元善光寺の南にある「麻績の里遊歩道」を100メートルほど歩くと桜の古木の連なる平嵐nへ出る。ここは旧座光寺小学校の跡地。ここには県下最古の学校建物(明治6年建築)で、旧座光寺麻績学校校舎がある。長野県宝で歌舞伎舞台・校舎兼用という特徴ある建物で、小学校移転後もここだけは取り壊さず保存された。現在も人形劇公演などに使われている。
その隣には「舞台桜」と名付けられた樹齢300年、高さ12メートルのしだれ桜がある。飯田地方には桜の古木が各地に点在するがこの桜も人気が高く、開花期には多くの人々が花見に訪れる。更にここ一帯には隣接して麻績神社・竹田扇之助人形館なども並んでいる。
■長野善光寺本尊
長野市にある善光寺の本尊は一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)と呼ばれ中央に阿弥陀如来、左に勢至菩薩、右に観音菩薩が一体の台座の上の臼座に立ち、背後に一枚の舟形光背を背負う形となっている。ただこの本尊は絶対秘仏とされ、厨子に納められた仏はその扉が封印されており、鎌倉時代以降誰もその姿を見ていないと言われている。
この本尊の代わりとして鎌倉時代頃につくられたのが前立(まえだち)本尊(重要文化財)で、本尊と同一形式のつくりとされている。この前立本尊も秘仏となっているが、6年に1回(足かけでは7年に1回)御開帳として公開される。(前回は平成15年、次回は平成21年)
■善光寺・元善光寺の由来
善光寺・元善光寺共開山時の年代の古い資料はなく、江戸時代に書かれた善光寺縁起・元善光寺縁起や全国の善光寺に関する記述の残る古文書などを中心に辿るしかない。特に各縁起の記述は、神話的表現の部分もあり、歴史的信ぴょう性の薄い印象がある。
その縁起によれば601年(推古天皇の9年)、信濃国麻績の里(現在の長野県飯田市座光寺)に住む本田善光(よしみつ 若麻績東人)が都への調の納税の共として出向いた帰りに難波地方を歩いていた際、近くの堀江に沈む仏像を見つけ、それを拾い出し背負って持ち帰ったのが善光寺如来とされている。
そして自宅近くにこの仏像を安置するために建てたお堂が今の元善光寺の始まりと言われている。更にこのお堂に置かれて41年後、642年(皇極天皇の元年)には仏像は今の長野市に移され、建てられた寺が善光寺となった。移された理由は仏像(善光寺如来)のお告げによるとされている。
■日本最古の仏像−善光寺如来
日本書紀などの記述によれば、日本に最も早く仏像が伝わったのは552年(欽明天皇の13年)となっている。朝鮮半島三国時代で百済の当時の王、聖明王(523年即位)の使いが日本に渡り、欽明天皇に金銅の如来像や経典を贈ったとされ、これが日本における仏教伝来の始まりとされ、その時の如来像が日本最古の仏像とされている。
当時天皇を支える有力な豪族として蘇我氏・物部氏があり、この時伝えられた仏教を崇拝しようとする蘇我氏と古くから神を尊ぶ物部氏との間で崇仏・排仏で意見が対立した。欽明天皇の命で時の大臣(おおおみ)蘇我稲目がこの金銅の如来像を授かり、向原の住まい(奈良県明日香村)に祀り、この家を寺とした。これが日本最初の寺となり、後に向原寺となる。
当時広く疫病が流行し、570年に蘇我稲目が死去すると、大連(おおむらじ)だった物部尾興は疫病の流行が仏教崇拝への神の怒りであると天皇に訴え、蘇我稲目の寺を焼き払い、仏像を難波の堀江に投げ込んだとされている。
ここで投げ込まれた仏像が善光寺如来、拾い上げたのが本田善光へとつながっていく。
現在もある奈良県明日香村豊浦の向原寺(こうげんじ)は設立の開基が蘇我稲目となっており、「向原寺縁起」によれば、この日本最古の寺の由来について上記同様の記述がされ、「当寺はまた古来元善光寺と称し」たと記している。
■中世・近世期の善光寺
古くから善光寺が今のような大寺であったか不明だが、1187年には源頼朝が信濃の御家人に焼けた善光寺を建て直すよう命じており、1199年には頼朝が善光寺をお参りしている。(当時信濃の多くの豪族は鎌倉幕府御家人として直接の支配下にあった)
また戦国時代には本尊善光寺如来は時の武将たちによって各地に持ち回されている。1555年上杉謙信が春日山城(新潟県上越市)へ、1558年には武田信玄が甲府(甲府善光寺を建てる)へ、1582年には織田信忠(信長嫡男)が岐阜(今の岐阜善光寺)へ、1583年には徳川家康が鴨江寺(静岡県浜松市)へ、また1597年には一旦甲府善光寺へ戻っていった善光寺如来を豊臣秀吉が京都方広寺へと移していった。翌1598年になって15人の僧と共にようやく長野に返された。この間43年が経っており、本尊・僧侶のいない善光寺は廃寺同様となっていた。
所 在 地●飯田市座光寺2638
電 話●0265-23-2525
入 場 料●無料 宝物館200円
駐 車 場●有 無料
当園より●12km 20分
麻績神社
麻績の里遊歩道
舞台桜
本殿(右)と客殿(正面)
本殿
旧座光寺麻績学校校舎(手前)と
竹田扇之助人形館
本殿(右)と客殿