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高遠城址

■高遠城の歴史
築城の初めは鎌倉時代といわれる。当時、信濃の名豪族・諏訪氏の一族である高遠氏の居城であった。戦国時代になってこの地が諏訪方向から南信濃や遠江(静岡)へ向かう戦略上の重要な拠点となり、1545年武田信玄がこの城を奪い取った。1582年の織田信長の武田攻めに際しては信玄の五男(武田勝頼の異母弟)仁科盛信が城主となり、織田軍を迎え撃つ戦場となった。一日足らずの戦いだったが城主盛信は自刃し、ろう城する3千の兵は全員討死する壮烈な戦いだった。その後、織田(毛利秀頼)・木曽義昌・徳川家康・豊臣(京極高知)へと支配が変わり、戦いの中で家康家臣となった地元保科氏が、江戸幕府開設と共に高遠藩主となり高遠城を居城とした。以後、保科氏から鳥居氏へと移り、1691年から内藤氏が3.3万石で入封し、明治維新まで8代が藩主を努め、徳川譜代の藩として重要視された。

高遠といえば、1714年(将軍家7代家継期)の大奥絵島事件がある。絵島の流刑の地が高遠だった。明治になって城は取り壊されたが、明治8年、荒れた城跡を整備しようと旧藩士たちが桜を植えた。その桜がコヒガンザクラで、現在は1500本を越え、花見のシーズンには40万人が訪れる桜の名所となっている。

■織田・武田の激戦の地
1582年3月、天下統一を目指す信長は、1574年の長篠の合戦以後勢力を弱めつつあった武田勢を滅ぼすため、嫡男信忠を大将に3万の軍で木曽谷・伊那谷両方向から侵攻した。一方織田軍下にあった徳川家康も、駿河からさらに同盟関係にあった小田原北条氏も相模から甲斐へ侵攻していた。武田家頭首勝頼は木曽鳥居峠での織田軍との戦いで惨敗し、新府城(韮崎)へ逃げ帰った。伊那谷を進んだ織田軍を前に迎え討つ各城は、いずれも戦わず自落していった。唯一戦場となったのが要衝の地とした高遠城だった。父信玄に性格が最も近かったという五男仁科盛信が城主となり、3千の兵で織田軍を迎え撃った。3月2日未明から織田軍の攻撃が始まった。一部中からの内通者もあり、昼過ぎには決着したというが、武田勢の兵は全員討死し、城主盛信も自刃して果てた。織田・武田両軍の唯一の激戦の地でもあったが、悲しい戦いの地でもあった。一方勝頼も穴山梅雪(妻は信玄の二女見性院)や、小山田信茂の裏切りもあり、更に武将たちも逃げ去り、残る数十名で天目山(甲州市大和町)に逃れ、妻北条夫人・嫡男信勝と共に自害して果てた。

■絵島事件と高遠藩
徳川幕府7代将軍家継の時代、1714年1月、家継の生母月光院につかえる絵島(大奥筆頭で知行600石)が増上寺代参の帰りに供の者たちと山村座に寄り、歌舞伎役者生島新五郎と酒の席で遊び、酔って帰城が遅れてしまった。寺への金子70両の一部も祝儀にしていた。うわさは大奥、城内はおろか城外へも広がり、これをよい機会と公義重役秋元喬知を中心に、幕閣の合意で即断即決で処分が下された。山村座は廃止。生島新五郎は三宅島へ流罪。絵島も流罪だったが、月光院の嘆願もあり高遠藩お預けの幽閉となった。そのほか関係の大奥1500人もの大量処分の大事件となった。

事件の背景には、前将軍家宜の正室天英院(京の公家関白近衛家の娘)と家宜の後継である7代家継を産んだ側室月光院の戦いがあり、幼かった将軍家継の下で利権を得る月光院派の大奥の権力を削ぎ落とそうとする幕閣内の争いがあった。絵島は高遠城下の囲み屋敷で1741年、61歳で没するまで過ごした。屋敷は現在も同じ場所に残されている。建物は再建されている。また、絵島の墓は近くの蓮華寺の本堂の裏にある。

■保科正之と会津藩
2代将軍秀忠は恐妻家だった。3代将軍家光はじめ、二男五女を産んだ正室お江与の方の他には側室はいなかった。ただ乳母の部屋付の娘お静にお手が入り身ごもらせている。それが後の保科正之である。正室には内密にし、板橋の実家で出産し、3歳の時江戸城内田安門近くに居て、家康の後盾もあった見性院(武田信玄二女穴山梅雪室)に養育を依頼した。家康の死後、正室お江与の方の追求を恐れた見性院は、武田家との関係で交流もあった、子供のいない高遠藩主保科正光に7歳となった正之の預かりを依頼した。この間の一連の緒策には幕閣土井利勝の城内内密の行動があった。1626年には正室お江与の方が亡くなり、1629年6月正之が19歳の時、江戸城の西の丸において父秀忠に初めて面会した。保科家養子となった正之は、正光の死後2代高遠藩主となり、また異母兄である幕府3代将軍家光(正室お江与の方長男)との兄弟関係も良く、幕政にも尽力し、後の4代将軍家綱も助けた。

その後高遠藩から1636年には山形藩20万石、1643年には会津藩23万石に転封し大大名となった。幕府への恩義を感じた正之は、「会津藩は将軍家を守護すべき存在。たとえ藩主が裏切っても家臣は従うな」など、会津家訓15箇条を定めた。その家訓に従って、幕末藩主松平容保(3代藩主正容より保科性から徳川親藩松平性となった。正之は保科家への恩義から保科性を通した)は、京都守護職として幕末動乱期の京都で活躍し、戌辰戦争でも最後まで官軍と戦い、白虎隊の悲劇も生んだ。









































































本丸入口(桜雲橋)
本丸跡(コヒガンザクラ)
二の丸跡(コヒガンザクラ)
高遠城址南に位置する信州高遠美術館
高遠町蓮華寺にある絵島の墓
高遠町歴史博物館
歴史博物館内にある絵島囲み屋敷

>MAP

所 在 地●伊那市高遠町高遠
電  話●0265-4-2552(高遠町観光協会)
入 場 料●無料 園内は自由に散策できます
駐 車 場●有 無料
    ※さくら祭期間(4月中旬〜5月上旬)は入場料・駐車場共有料
当園より●40km 60分/高速利用40分